ご由緒

ご由緒

與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。

祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。

この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。

元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)

水垂村当時の與杼神社

桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。

なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46年6月22日(同年3月26日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。

しかし、残念ながら本殿は、昭和50年8月5日午後4時30分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。

焼失前の本殿

その後、氏子・崇敬者各位の熱烈なご助力のお陰をもちまして、現在の本殿は昭和55年3月23日滞ることなく予定通り竣工。

あわせて與杼神社が、この地に遷座された明治33年(1900年)より数えて、丁度100年にあたるのを記念して、平成12年(2000年)9月に社務所が新築されました。

ご社殿

祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)
の三柱であります。

現在の本殿は昭和50年の焼失により昭和55年3月に建立されました。
その間の昭和50年から54年まで伊勢神宮より「由貴御倉」を拝領し元の本殿敷地内に仮本殿として安置、氏子各位の浄財のご寄進を募り建て替えとなりました。
三間社流造りで屋根は銅板葺きで床面積46平方メートルとなっています。

拝殿について

国の重要文化財(15.51平方M)
桁行二間・梁間二間・一重入母屋造・こけら葺屋根、本殿の東方に建ち規模は十三尺四方・正面と背面は柱間一間・両側面は六尺五寸ずつの二間になっている。柱は角柱の面とりである。
地覆石上に地長押を廻らし床板を張る。内部は一面の格天井となっている。特に頭貫木鼻、雲肘木の絵様が本殿と類似しているところから全焼前の本殿と同時期の建立と見られる。基本的には、良く保存されているので本殿とともに重要文化財に指定された。
平成28年度にこけら葺きの改修が行われています。

その他

本殿・拝殿の他に、日大臣社(ヒダイジンシャ)、長姫社、川上社、豊丸社、の各社殿と、神輿三基を格納してある神輿庫、手水舎及び社務所などの各建造物が、4437平方メートルの境内に建立されています。

なお、この地は淀城跡と共に風致地区に指定されています。

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